SSブログ

歌手・大橋純子さん、「たそがれマイ・ラブ」ヒットで長い葛藤へ

【話の肖像画】歌手・大橋純子さん(64)

 札幌の短大を卒業してからも地元には帰らず、ラジオ局でDJの仕事を続けていました。卒業後、半年が過ぎたころ、ススキノのナイトクラブから、ボーカルの女性が体調を崩したので代わりに歌わないかと誘われました。そのころはハードロックに夢中でしたが、雰囲気にそぐわないので、ボサノバを歌っていました。

 毎日人前で歌っているうちに、自分の歌を試してみたいという気持ちが強くなりました。これ以上札幌にいてはいけないとも考えました。それで、ナイトクラブのバンドのメンバー3人と上京することになりました。

 出発する1週間前に夕張に帰って、両親に「来週から東京に行くよ」と告げました。一晩話し合いましたが、話はまとまりません。母親は「もう知らない、勝手にしなさい」。それで、勘当されたような形で上京しました。

 何のあてもありません。夜は歌のアルバイトをしていました。その後、昼の仕事を見つけました。そしてオーディションに合格し、昭和49年に24歳でデビューしました。

 〈49年には太田裕美や浅野ゆう子、その前年には山口百恵、桜田淳子、キャンディーズがデビューして人気者に。時代はアイドル全盛期だった〉

 デビューはしましたが、仕事は人気歌手のコンサートの合間に2、3曲を歌わせてもらうくらい。たまにCMソングを歌ったりしていましたが、満たされない気持ちでした。

 〈52年に「大橋純子と美乃家セントラル・ステイション」というバンドを結成、再スタートをきる。美乃家は当時よく電池などを買っていた電器屋の店名、セントラルステイションは人気があったファンクバンド「グラハム・セントラル・ステーション」にちなむ〉

 バンドとしてデビューしてすぐに、スペインで開催されていたマジョルカ世界音楽祭に出ないかというお誘いがありました。海外旅行もしたことがないのに。私は無名の存在ですから、度胸試しくらいの気持ちで参加しました。そしたら、「シンプル・ラブ」が第3位に入賞しました。

 それだけでなく、この年は、東京音楽祭世界大会で外国審査員団賞を受賞しました。名前が知られるようになり、コンサートツアーもできるようになりました。

 53年にはテレビの3時間ドラマの主題歌の仕事をいただきました。それが「たそがれマイ・ラブ」です。いかにも歌謡曲という感じの曲です。洋楽を意識した音楽性を打ち出していたときなので、ものすごくいやでした。

 曲はドラマの放送後、大ヒットしました。それまで身につけたこともないドレスを着て歌いました。それもいやでしたね。日本レコード大賞の金賞も受賞しました。これが長い葛藤の始まりです。でも、今だから分かるのですが、このヒットがなければ今日の私はないことは間違いありません。(聞き手 櫛田寿宏)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140716-00000548-san-musi
※この記事の著作権は配信元に帰属します。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。